オーエヌ工業株式会社さんをTV取材しました。
企画 津山圏域工業会
製作 株式会社テレビ津山
2011年09月01日
2008年02月07日
ステンレス継手「ナイスジョイント」のオーエヌ工業株式会社を訪問
津山のステンレス加工の草分けであり津山市への最初の誘致企業でもあるオーエヌ工業株式会社 中村 政弘代表取締役社長にお話を伺いました。


写真_中村社長 写真_オーエヌ工業
業務内容を教えてください
ステンレス配管材料のメーカーです。
入社されたのはいつ頃ですか
私は大阪で生まれ育ちました。父がS39年に創業した会社でS42年に津山工場ができましたので、子供の頃から津山に来ていましたし、工場内でバイトもしました。
大学を出て2年間、アルミ加工をしていたおじの会社で修行といいますか、勉強をさせてもらい自社に入社しました。
入社して半年間で全ての部署をまわり、大阪で2年間営業、その後東京で5年営業し津山に帰ってきました。
−どうして津山に立地されたのでしょう
父から聞いた話では、津山駅からバスに乗って何度か湯原温泉に行っており、津山には学校がたくさんあることや、当時は8割が輸出でしたので神戸港にもある程度近いという印象を得ていたようです。
将来的な高速道路の開通も大きな要因だったと思います。
−最初に津山に来られたときはどうでしたか
当時はまだ高速も開通していませんでしたので、大阪から5時間かかっていました。
それより困ったのは食事です。8時ごろ仕事が終わり、夕食を食べようと思っても買うところが閉まっていて、食べる店もほとんどありませんでした。
東京で営業した後津山に帰ってきた時には、あまりの変わりように驚きました。スーパーやコンビニ、お店が立ち並び、今では不便もありません。冬がちょっと寒いくらいですか(笑)。
それと津山に住むようになって花粉症も治りましたよ(笑)。やはり空気がきれいなんじゃないでしょうか。
主力商品「ナイスジョイント」について教えてください。
S50年代は別のメーカーの継手が市場を席巻していましたが、継手が抜けるというトラブルが起きていました。そこで当社では抜けない、また衛生面でも優位性のある製品として新しい継手を開発。特許を取得し、「ナイスジョイント」という名称を付けました。
しかし、最初はあまり売れませんでした。私もちょうどその頃東京で営業していましたが、ある大手企業が1年間だけ使ってくれました。

写真_ナイスジョイント
その間トラブルも全く無かったものですから、その企業様から紹介して頂いたりで大きく広がり、屋内配管の継手では国内約50%以上のシェアを占めています。
どんな方を採用したいですか
元気でまじめな方ですね。やはり3年くらいで辞められてしまうのが一番つらいので、ずっといて頂きたいと思います。大阪と比べて津山の方はまじめな方が多く、特にここ数年いい人が入ってくれています。
人材育成にどう取り組んでいますか
総合職を目指す方は全部署を経験してもらい、技術職の方には熟練工からのマンツーマンでの指導を受けてもらいますし、通信教育なども活用しています。



津山での創業時に入社された方が定年を迎えており、希望者の方は再雇用していますが、技術の継承が一番の課題です。
趣味は
ゴルフです。家も近いですので久米カントリークラブにはよく行きます(笑)。
どんな学生時代でしたか
まじめでしたよ(笑)。私はお城が好きで友人と全国のお城や城跡を見に行きました。
−津山の城跡はいかがですか
お城があったら本当にすばらしい観光資源になったと思います。天守が無いのは残念ですが、櫓の復元などでまた魅力も高まりましたね。
目標と課題は
会社をいかに次の世代に受け継ぐかです。そのためにはやはり人の力が必要です。
例えばNCの機械では加工できないもの、熟練工が普通旋盤で加工するわけですが、こうした技術をどう伝承するか。いいものをいかに安く作るかの工夫も当然です。
また、創業当時8割が輸出でしたが円高が進むにつれ国内へシフトし、現在国内向けが95%くらいです。価格の面で厳しい部分もありますが、当社の商品の信頼性を認めていただければ海外での需要はあると思います。
それと新製品の開発です。ナイスジョイントに続く商品を開発したいですね。
H10年4月入社の品質保証課 住吉 浩二さん(S53年生まれ)にお話を伺いました。

写真_住吉さん
どうして入社しようと思いましたか
実家が鏡野町で地元に残りたいとハローワークで求人を見つけ応募しました。
入ってみていかがでしたか?現在の仕事を教えてください
正直どんなことをしている会社か全く知らなくて入社しました。
初めてのことばかりで最初は戸惑いましたが他の方が親切で助けられました。
初めの1年は加工工程にいましたが、以後は組立工程にいます。最終工程ですので、要求された数の製品を出荷する大事なところだと思っています。

困ったことはありませんか
やはり最終工程は全ての部品が揃わなくてはできません。課ごとに週1回ミーティングがあり、改善しながらやっています。
社会人になって感じることは
未成年にはない自由がありますが、責任もあります。仕事、私生活でも責任を自覚しますね。
趣味は
バスフィッシングと音楽鑑賞です。バスフィッシングは社会的には問題もあるんですが(笑)。
これから就職する人へアドバイスするとしたら?
目標を持つことができれば、それに向かって資格を取ったり情報収集したりできると思います。
自社をPRしてください
40年以上の歴史があり地域に根付いた会社だと思います。私が先輩に親切に指導していただいたように、私も後輩に優しく接していきたいと思います。

H15年4月入社の貿易課 大林 利行さん(S59年生まれ)にお話を伺いました。

写真_大林さん
どうして入社しようと思いましたか
尼崎の短大に進みましたが実家が鏡野町で帰ってきたいとU-ターンガイドを見てこの会社に応募しました。
入ってみていかがでしたか?現在の仕事を教えてください
実はものづくりに興味があって入社したのですが、いわゆる事務系の部署にいます。生産管理を3年間、今は資材輸入と製品輸出の仕事をしています。
−輸入・輸出になると外国語が必要ですか
それが、日本語ができる担当者ばかりなので(笑)、全く大丈夫です。
困ったことはありませんか
取引上ステンレスの専門知識が必要ですが、最初は大変でした。また、製造現場の経験が無いので、加工のことも知りたいと思っています。

社会人になって感じることは
責任感でしょうか。中途半端はだめで考えて動くような自主性が必要だと思います。
趣味は
アウトドアです。昨年7月に子供ができましたので、今は相手をするのが楽しいですね。
−家事も手伝いますか
親子3人で暮らしていますが私はあまりしません。最初が肝心ですね(笑)。
これから入社してくる人へアドバイスするとしたら?
団塊世代の方が持っている技術を早く受け継いで欲しいと思います。
自社をPRしてください
ステンレス一筋の会社でこれからも伸びていくと思います。熟練の技術者が大勢いますし、若手とのコミュニケーションもとれているのが強みだと思います。
取材後記
同社の立地が現在津山が誇るステンレス加工企業集積(約60社)の第一歩です。
長い年月をかけ津山に根付いたステンレス加工。
今後も地場を牽引するリーディング企業として頑張って頂きたいと思います。
(取材 尾高、沼)


写真_中村社長 写真_オーエヌ工業
業務内容を教えてください
ステンレス配管材料のメーカーです。
入社されたのはいつ頃ですか
私は大阪で生まれ育ちました。父がS39年に創業した会社でS42年に津山工場ができましたので、子供の頃から津山に来ていましたし、工場内でバイトもしました。
大学を出て2年間、アルミ加工をしていたおじの会社で修行といいますか、勉強をさせてもらい自社に入社しました。
入社して半年間で全ての部署をまわり、大阪で2年間営業、その後東京で5年営業し津山に帰ってきました。
−どうして津山に立地されたのでしょう
父から聞いた話では、津山駅からバスに乗って何度か湯原温泉に行っており、津山には学校がたくさんあることや、当時は8割が輸出でしたので神戸港にもある程度近いという印象を得ていたようです。
将来的な高速道路の開通も大きな要因だったと思います。
−最初に津山に来られたときはどうでしたか
当時はまだ高速も開通していませんでしたので、大阪から5時間かかっていました。
それより困ったのは食事です。8時ごろ仕事が終わり、夕食を食べようと思っても買うところが閉まっていて、食べる店もほとんどありませんでした。
東京で営業した後津山に帰ってきた時には、あまりの変わりように驚きました。スーパーやコンビニ、お店が立ち並び、今では不便もありません。冬がちょっと寒いくらいですか(笑)。
それと津山に住むようになって花粉症も治りましたよ(笑)。やはり空気がきれいなんじゃないでしょうか。
主力商品「ナイスジョイント」について教えてください。
S50年代は別のメーカーの継手が市場を席巻していましたが、継手が抜けるというトラブルが起きていました。そこで当社では抜けない、また衛生面でも優位性のある製品として新しい継手を開発。特許を取得し、「ナイスジョイント」という名称を付けました。
しかし、最初はあまり売れませんでした。私もちょうどその頃東京で営業していましたが、ある大手企業が1年間だけ使ってくれました。

写真_ナイスジョイント
その間トラブルも全く無かったものですから、その企業様から紹介して頂いたりで大きく広がり、屋内配管の継手では国内約50%以上のシェアを占めています。
どんな方を採用したいですか
元気でまじめな方ですね。やはり3年くらいで辞められてしまうのが一番つらいので、ずっといて頂きたいと思います。大阪と比べて津山の方はまじめな方が多く、特にここ数年いい人が入ってくれています。
人材育成にどう取り組んでいますか
総合職を目指す方は全部署を経験してもらい、技術職の方には熟練工からのマンツーマンでの指導を受けてもらいますし、通信教育なども活用しています。


津山での創業時に入社された方が定年を迎えており、希望者の方は再雇用していますが、技術の継承が一番の課題です。
趣味は
ゴルフです。家も近いですので久米カントリークラブにはよく行きます(笑)。
どんな学生時代でしたか
まじめでしたよ(笑)。私はお城が好きで友人と全国のお城や城跡を見に行きました。
−津山の城跡はいかがですか
お城があったら本当にすばらしい観光資源になったと思います。天守が無いのは残念ですが、櫓の復元などでまた魅力も高まりましたね。
目標と課題は
会社をいかに次の世代に受け継ぐかです。そのためにはやはり人の力が必要です。
例えばNCの機械では加工できないもの、熟練工が普通旋盤で加工するわけですが、こうした技術をどう伝承するか。いいものをいかに安く作るかの工夫も当然です。
また、創業当時8割が輸出でしたが円高が進むにつれ国内へシフトし、現在国内向けが95%くらいです。価格の面で厳しい部分もありますが、当社の商品の信頼性を認めていただければ海外での需要はあると思います。
それと新製品の開発です。ナイスジョイントに続く商品を開発したいですね。
H10年4月入社の品質保証課 住吉 浩二さん(S53年生まれ)にお話を伺いました。

写真_住吉さん
どうして入社しようと思いましたか
実家が鏡野町で地元に残りたいとハローワークで求人を見つけ応募しました。
入ってみていかがでしたか?現在の仕事を教えてください
正直どんなことをしている会社か全く知らなくて入社しました。
初めてのことばかりで最初は戸惑いましたが他の方が親切で助けられました。
初めの1年は加工工程にいましたが、以後は組立工程にいます。最終工程ですので、要求された数の製品を出荷する大事なところだと思っています。

困ったことはありませんか
やはり最終工程は全ての部品が揃わなくてはできません。課ごとに週1回ミーティングがあり、改善しながらやっています。
社会人になって感じることは
未成年にはない自由がありますが、責任もあります。仕事、私生活でも責任を自覚しますね。
趣味は
バスフィッシングと音楽鑑賞です。バスフィッシングは社会的には問題もあるんですが(笑)。
これから就職する人へアドバイスするとしたら?
目標を持つことができれば、それに向かって資格を取ったり情報収集したりできると思います。
自社をPRしてください
40年以上の歴史があり地域に根付いた会社だと思います。私が先輩に親切に指導していただいたように、私も後輩に優しく接していきたいと思います。

H15年4月入社の貿易課 大林 利行さん(S59年生まれ)にお話を伺いました。

写真_大林さん
どうして入社しようと思いましたか
尼崎の短大に進みましたが実家が鏡野町で帰ってきたいとU-ターンガイドを見てこの会社に応募しました。
入ってみていかがでしたか?現在の仕事を教えてください
実はものづくりに興味があって入社したのですが、いわゆる事務系の部署にいます。生産管理を3年間、今は資材輸入と製品輸出の仕事をしています。
−輸入・輸出になると外国語が必要ですか
それが、日本語ができる担当者ばかりなので(笑)、全く大丈夫です。
困ったことはありませんか
取引上ステンレスの専門知識が必要ですが、最初は大変でした。また、製造現場の経験が無いので、加工のことも知りたいと思っています。

社会人になって感じることは
責任感でしょうか。中途半端はだめで考えて動くような自主性が必要だと思います。
趣味は
アウトドアです。昨年7月に子供ができましたので、今は相手をするのが楽しいですね。
−家事も手伝いますか
親子3人で暮らしていますが私はあまりしません。最初が肝心ですね(笑)。
これから入社してくる人へアドバイスするとしたら?
団塊世代の方が持っている技術を早く受け継いで欲しいと思います。
自社をPRしてください
ステンレス一筋の会社でこれからも伸びていくと思います。熟練の技術者が大勢いますし、若手とのコミュニケーションもとれているのが強みだと思います。
取材後記
同社の立地が現在津山が誇るステンレス加工企業集積(約60社)の第一歩です。
長い年月をかけ津山に根付いたステンレス加工。
今後も地場を牽引するリーディング企業として頑張って頂きたいと思います。
(取材 尾高、沼)